子宮頸癌 子宮肉腫 悪性リンパ腫

悪性リンパ腫

私(古森雄一)の妻 古森良志子は, 2013年5月29日午前1時ごろに悪性リン パ腫のために横浜市立大学附属病院で永眠しました。附属病院には3月27日に入院したのですが, 入院前は自分が悪性リンパ腫だとは思ってもいなかったようです。本人は子宮頸癌か子宮肉腫だと思 っていて入院直後に悪性リンパ腫の可能性もあるといわれても, 悪性リンパ腫のはずがないと 言っていました。妻の PC には入院前に自分の病気についてインターネットで色々と調べた痕跡 が残っていました。しかし悪性リンパ腫について調べた形跡はありませんでした。

私がこのページを作った理由は, このページを見た方が自分も悪性リンパ腫かも知れないと気づき 一刻も早く適切な対処をしてもらいたいからです。このページの表題を「子宮頸癌 子宮肉腫 悪性リンパ腫」としたのも子宮頸癌や子宮肉腫だと思っている人もここに辿り着いて もしかしたら悪性リンパ腫かも知れないと思って欲しいからです。悪性リンパ腫は抗がん剤がよく効 く癌です。 腸の大手術の後の ICU での抗がん剤治療という最悪の条件にもかかわらず腫瘍の大きさは入院時の 半分程度に減少しました。1か月ほど前に適切な対処をしていれば腸の大手術もなく普通の状態で 抗がん剤治療ができて違った結果になっていたと思っています。

妻の願い

妻の2013年3月17日の日記より
17 March 2013

久しぶりに快眠だった。だけど病気は一向に良くなっていない。
多分治療しないと無理だろう。
今のところ,子宮以外は大丈夫なようだ。

インターネットを見ていたら,私は子宮肉腫かもと思った。

まあ,いまさらどうしようもない。こんなになって癌だったら
どっちみち助からない。もう開き直って生きていくぞ。
余命6か月らしいから,早めの財産や身の回りの片づけをしなくては。
ここに書かれた身辺整理というささやかな願いも叶えることができなかった。入院してすぐ 最悪の場合余命は1か月と言われた時も1か月あれば私に指示して身辺整理ができる と妻は思っていた。しかし入院4日後に意思の疎通がままならない状態になってしまったのです。

事の始まり

妻は体調が悪く頻尿などの自覚症状があっため2013年3月8日に鎌倉駅近くの広川医院(腎泌尿器科)で 診察を受けました。その血液検査結果やエコー検査の結果な どから腹部に腫瘍があることが分かった。その腫瘍が膀胱を圧迫して頻尿になっていたようである。 14日に藤沢市保健医療センターで MRI(磁気共鳴画像診断)をすることになる。この広川医院の対処は良 いものだったと思う。

16日に14日に撮った MRI の写真をもって広川医院の診察を受ける。腹部に大きな 腫瘍があることがわかる。 広川医院の紹介状を持って横浜市大附属病院の産婦人科に27日行くことが18日に決まる。この広川医院 の対処は最善ではなかったけれど, その後の附属病院での対処と比べてみると比較的良い対処であった と思う。最善の対処は何の腫瘍なのかを検査できる病院に直ちに入院でした。

3月25日に27日まで我慢できないということで自転車で行ける近所の産婦人科で受診する。しかし 27日に横浜市大附属病院に行けばいいというそこに行った意味がほとんどない結論であった。 また, この日にはクロ(17才雌猫写真1, 写真2) の容体が悪くなり動物病院に入院させる。いつもクロを病院に連れて いくときは二人で行ったのであるが, この日は私一人で連れて行った。私がクロを連れて出かけるとき, 妻はクロの医療費は何百万円かかってもいいからと自分の病気のことよりクロことを心配していた。

横浜市大学附属病院での治療

産婦人科に入院から腸の緊急手術まで

3月27日は妻と私と二人で予約時刻の午前9時に間に合うようにタクシーで横浜市大附属病院に向かった。 タクシーが拾える通りまでは家から12分ほどかかる。妻のほうが少し先に出て私が追いかけて追いつくと 思ったのだが, 拾える通りに着くまでに追いつかなかった。それぐらい元気だった。また, そのまま 入院と予想されただが, 妻は帰ってくるつもりでいたので入院の準備はしていかなかった。

附属病院では即入院ということになり入院診療計画書に同意 しいくつかの検査を受ける。主治医 A さんと其の外の担当医 2 名が決まったが3人とも若いのと年度末ですぐに 主治医, 担当医が変わってしまうことを妻は気にしていた。入院の準備をしてこなかったので私が入院のた めのものを運ぶことになる。そのためのメールのやり取りが ここ(のむ: 妻, こも: 私) にある。入院の日(3月27日)の19:40ぐらいに動物病院でクロ死す。メールのやり取りの 「Date: Sat, 30 Mar 2013 08:35:46」を見ると苦しい最中なのに死んだクロのことを気遣っている(みねさんはクロの 行きつけの動物病院。みねさんに紹介されたたかだ動物病院に入院していた)。

27日の検査などにより腫瘍の種類は定まらなかったが診療方針が決まった。その内容が3月29日の診療内容説明書である。1ページ目に4月4日に開腹手術することが 書かれている。悪性リンパ腫の可能性があることも書かれている。次の同意書 は4月4日に開腹手術に対する同意書である。この同意書に署名する前に妻は「手術中に死んでしまうこ とはないのでしょうね」という質問をした。身辺整理ができないうちに亡くなってしまうことが心配だったよう だ。しかし妻の状態は急激に悪くなっていった。メールのやり取り 「Date: Wed, 27 Mar 2013 16:35:47」ではパソコンを持ってきて欲しいと言っていたのが, 「Date: Fri, 29 Mar 2013 09:32:37」ではバソコン使えるような状態ではありませんと言っている。そこに書かれている月曜とは 4月1日なので, 4月1日までもつか自信がないと言っていることになる。実際, その予想は当たってしまい 3月31日未明に緊急手術となってしまった。

4月4日の手術については誰に知らせるのか話し合った。最初は, 妻は誰にも知らせる必要はないと言っていたが, やはり妻のお母さんには知らせた方がいいということになった。

30日まで妻が書いたメモ書かされた 検温メモがある。検温メモの食事量を見るとやはり胃か腸の調子が急激に悪くなっているのがわかると 思う。しかし治療らしい治療は何も行われていなかった。

3月30日は20時ぐらいまで病院で面会をしていたのではないかと思う。鎌倉の家に帰って寝ていたところ病院から 31日未明に電話があり緊急に手術をしなければならないのですぐに病院に来てほしいとのこと。タクシーを呼んで 行ってみると話はできるが自分では同意書に署名できない状態であった。5, 6時間前は普通に話もでき歩くことも できていたので非常に驚いた。「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」と聞いたところ「腫瘍の種類がわか らない状態でむやみに開腹することができなかった」という不可思議な言い訳をした。4月4日予定のの開腹手術も 腫瘍の種類がわからない状態でもやる予定だったし,これからやる緊急手術も腫瘍の種類がわからない状態でやる のだから言い訳になっていないと思った。とにかく腸に穴が開いてしまったようなので緊急に手術しなければなら ないとのこと。その時に書いた同意書の妻の署名は私が代筆した。その時に 産婦人科の K 医師から受けた診療内容の説明は ここ にある。

腸の緊急手術から ICU を出るまで

緊急手術は早ければ2, 3時間で終わるとのことであったが, 10時間近い大手術となった。手術が終わるのを待って いる間に私の妹夫妻と妻のお母さんに連絡を取った。どちらも入院のことも知らせていなかったので驚いていた。 私の妹夫妻は手術が終わる前に病院に到着し一緒に手術が終わるのを待った。

手術の後, 外科の執刀医 C 医師から話を聞いた。「大変な手術であったが成功であった。壊死している腸の半分 ぐらいを切除した。半分残っているので良くなれば普通の生活ができるのではないか。残っている腸の見えた穴は 塞いだ。腫瘍のために見えてない穴があるかもしれないのでお腹はまだ閉じない。手術のために腫瘍と腸を分離し たところがあるがきれいに手で分離できたので悪性リンパ腫である可能性がある。腫瘍の種類を特定するため腫瘍 の一部を切り取った」とのことであった。切り取った腸は見せてもらった。その後しばらく待って ICU で術後の妻 に妹夫妻と一緒に面会した。麻酔が効いているので意識はなかったが, 大変な手術の直後にしては良く見えた。

4月1日は前日の疲れで家で休養したが, 2日から ICU を出るまでははほぼ毎日面会に行った。面会に行ったときに 気になったことなどを私が書いたメモが ここ にある。そのメモの「2013年04月06日土」 のところにある口に入れている管を抜く予定の日に抜けなかったのはショックだった。抜ければ話せるようになる はずだった。結局, 亡くなるまで話をすることはできなかった。

4月10日に悪性リンパ腫であると診断が確定して主治医がリウマチ・血液・感染症内科の D 医師となる。主治医は A(産婦人科), B(産婦人科), C(一般外科 ), D(リウマチ・血液・感染症内科)と変わったことになる。A から B への 変更は年度替わりのためである。早速, この診療内容説明書による抗 がん剤治療が始まる。その結果, 腸のどこかに穴が開いたようで, 11日の診療 内容説明書のようなことになる。4月15日にはさらに状態が悪化して15日の診療 内容説明書を見ると D 医師が非常に悲観的になっているのがわかる。この時は私のほうが D 医師を励ました。 17日の診療内容説明書に書かれた理由で気管切開手術をすることを4月17日 に決定する(確か18日に行われたと思う)。

4月25日には4月11日から続いていた危機的な状態ではなくなる。そのことは25日の診療 内容説明書からも窺える。また, この説明書には4月15日に悪性リンパ腫のタイプが末梢性T細胞性リンパ腫(PTCL) であることが分かったことも書かれている。また, ICU から追い出される可能性も書かれている。実際, 状態はさらによくなり 私が書いたメモにあるように4月29日にはかなり意識レベル高くなり I さんが「私と二人だけになり たいだろうから, 私は退室しようか」と聞いたところはっきり首を横に振って No の意思表示をした。I さんは途中で 退室するという事前打ち合わせしていたが,そのタイミングが取れずに I さんも困っていた。5月3日には意識レベルが更に高 くなって細かな意思の疎通もかなり取れるようになった。そして5月7日にリウマチ・血液・感染症内科の一般病棟に移った。

ICU を出てから死亡するまで

ICU を出たときは, ICU から生きて出ることができたということで良かったと思った。しかしすぐに話せるように なるとも思われなかったので長期戦になると思った。ICU にいたときはほぼ毎日面会に行っていたが, 一日おきに して私が面会に行かない日には妻のお母さんが行くということにした。こうしたことを今では強く後悔している。私は体 力的にはこの一か月10日余りでかなり消耗していて精神的にも重い決断を迫られることもあり疲れていたのであろう が, 何とか助けたいという思いで気が張りつめていたので精神的疲労は感じていなかった。結果的にも私が思ってい たほどには長期戦にならなかったので ICU にいた時と同じようにほぼ毎日面会に行くべきだった。

リウマチ・血液・感染症内科の一般病棟に移って良くなった点は面会時間が自由になったことである。ICU では原則と して面会時間が限られていた(15分だったと思う)。私の場合は妻が帰らないで欲しいとの意思を示すため原則の時間よ り長かったことが多い。私が書いたメモによると5月3日の面会時間は75分である。しかし, そ れ以外の点では ICU のほうが良かった。ICU には口がきけない人のために意思疎通のための文字盤があり, 看護師も 掌に文字を書かせたり口の動きで言いたいことをある程度読み取れる人がいた。要するに口のきけない人との意思疎通の 経験が豊富だったのである。また, 常時血圧や体温などの値が表示されていたのもありがたかった。なお, 文字盤につい ては甥の H さんがインターネットで売っているのを入手してくれた。しかし, それを使うまでには妻は回復しなかった。 5月2日に精神科リエゾンチームから次の診療内容説明書による説明を 受けたのだが, 妻が最ももどかしい思いしているの は意思の疎通がままならないことであることがはっきりしているので, それに対する対処を一番に考えて欲しかったと思 っている(特に一般病棟に移ってから)。しかし, それに対する対処は何もなかったと思う。

一般病棟に移ってからの状態は私が書いたメモの5月7日以降にあるとおりである。感染症による ものと思われる高熱が続いて 5月15日には ICU にいたときはなかった 40度以上の体温になった。ただ抗がん剤は確実に 効いて腫瘍の大きさは 1/2 ほどになった。腫瘍の大きさが 1/2 になった時 D 医師は喜んでいて, 私にすぐにその写真を 見せたかったと言っていた。見せてもらった映像では確かにお腹の中がすっきりした感じになっていた。私は「腫瘍が小さ くなって良かった。ただ高熱が続いているのが心配だ」と D 医師に言った。また,腫瘍が小さくなったことで腸の隠れてい た部分が現れたようで腸について穴が開いていたというより切断していたということが分かった。また, この頃には頷くこ ともできなくなって意思の疎通はほとんどできなくなったが, 数日後に私が瞼を閉じることによる意思の疎通を提案したら 一生懸命それをやってくれた。瞬きと区別するのが難しいのだが区別できるようにやろうとしていた。

5月17日には私 が書いたメモの5月17日にあるような処置をした。5月21日の診療内容説明書 はまだ助かる可能性がある ような内容だった。しかしその[腸管穿孔]の項目が深刻な状態である。その後, 状態はさらに悪くなり。 5月23日 の診療内容説明書にあるような状態になった。

5月28日の診療内容説明書(特に2枚目)は厳しい内容です。 5月28日には面会修了時刻 (20:00)を過ぎても病室にいたと思うが, その数時間後に亡くなるとは思ってもいなかった。D 医師も息の仕方が 良くないので急変するかもしれないが, まだ大丈夫でしょうと言っていた。しかし29日0:35に病院より危篤であるとの電話が ありタクシーで駆けつけた時には妻は亡くなっていました。その時, 病室にあったメモの内容が空しかった。

ICU にいた5月3日が一番状態が良かったので, ICU に戻してもらえないかと D 医師に話したことがある。しかし戻してはも らえなかった。4月25日の診療内容説明書には「抗癌剤投与によって再度全身 状態が悪化したら ICU 再入室となります」とあるので戻してもらえるのではと思ったのだが。しかし, この部分を取り出 してまでは強く D 医師に要求することはしなかった。産婦人科や外科の診療内容説明書に比べて D 医師の診療内容説明書 は分かりやすく治療についてもよくやってくれたと思っている。

死亡後に分かったこと, いつ悪性リンパ腫なったのだろうか

妻が亡くなった後に USB メモリーに入った 2005年3月から2007年3月までの間に書かれた日記が見つかった。 それを読むと主に研究上のことで強いストレスを感じていたことが分かった。研究上のストレスについては 生前に話を聞いていたのであることは分かっていたが, これほどのものとは思っていなかった。 更に妻の部屋の整理をしている最中に2013年1月に受診した人間ドックの結果(私は人間ドックを受診したことは知らな かった)や2003年から2012年までの指定年齢精密検査成績表が見つかった。暫くして(6月下旬)2004年9月から2013年3月27日 (横浜市大付属病院に入院した日)までの日記を USB メモリの中に見つけた。「妻の願い」のところで引用した日記である。

まず指定年齢精密検査成績表を見て欲しい。4 ページの2003年12月(平成15年10月)の 健康度グラフはほぼ問題がないいい形をしている。ところが 8 ページの2005年12月の健康度グラフは醜いものとなっている。 膵臓系・生化学が最も悪い値になっているが, 腹部の超音波検査の結果が問題だったと思う。12 ページの2008年1月の健康度グ ラフでは膵臓系・生化学は良くなっているが腹部の超音波検査は良くない。16 ページの2012年1月の健康度グラフでも腹部の超 音波検査と眼底検査が良くない。2005年12月から常に腹部の超音波検査と眼底検査の結果が良くないのである。眼底検査につ いては2010年6月に近所の病院で精密検査をした形跡が残っているが, 腹部の超音波検査については精密検査をした痕跡は見つ からなかった。今年(2013年)の1月にも指定年齢精密検査(結果報告書)が あり, その結果も(4ページ)腹部エコーと眼底が要精密検査と判定されている。また, 2004年9月から2013年3月27日までの日記の入ったファイルの最初のほうに纏められていた 健康状態についてのメモの 2013 のところを見ると自覚症状もあったことがわかる。

私は上のことから, 2005年12月には悪性リンパ腫になっていたのではと思っている。その原因は日記に書かれていたストレス による免疫力の低下なのだろう。少なくとも2005年12月以降の健康状態の悪化は, すでに悪性リンパ腫になっていたかどうかは 定かでないが, 悪性リンパ腫の原因となった健康状態の変化であると思う。

2014 年 5 月 27 日に作成

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